何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
もりしげ『蹂躙』(1998) より.妙に記憶にひっかかるコマだった.

もりしげ『蹂躙』(1998) より.妙に記憶にひっかかるコマだった.


「二次元にいきまっしょい」第28回より.

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最近、かつてほぼすべて買っていた橋本治の古い本を大量に処分した。土井たか子がいかにすばらしいかをかれが力説している二十年前の文をいま読むと、もうこんなものを手元におかなくていいだろうと思ったので。花咲く乙女たちのキンピラゴボウと蓮と刀とアストロモモンガと、時代劇の本とぶらんこと、その他5冊ほど残して捨てた。文そのものが時間の経過に耐えられないものが多いし、読者たるぼくの側の変化もあるんだけれど、もうかつてのように橋本治は読めない。で、先日古本屋の百円コーナーに、呉智英の文庫本が六冊まとめて出ていたので、つい買ってしまった。これもヘタに読むとまた橋本治のような失望を味わうことになるのか、と思ったりもしたが、杞憂だった。呉智英は、いまだにまったく価値を失っていない。よかった。 (2009/11/21, id)
つまるところ、QWERTY配列の成立は10年以上の歳月を要しており、かかわった人物もかなりの数に上る。それらの人物が、同じ目的のもとにキー配列を設計したとは考えにくい。特に1882年8月のキー配列変更は、Sholesの特許を忌避するためのもので、技術的な理由によるものではない。つまりQWERTY配列は、それぞれの時期で、複数のコンセプトに基づいて作られたものであり、一つの理由で説明できるようなものではない、ということだ。
迷亭もここにおいてとうてい済度(さいど)すべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭を凹(へこ)ましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢(とんちんかん)な事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥(はる)かに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目(めんぼく)を施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑(けいべつ)して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
夏目漱石 吾輩は猫である